県政の窓

ハンセン病家族補償法成立 偏見差別の根絶を

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 11月15日、国のハンセン病患者強制隔離政策で被害を受けた元患者の家族に国が補償金を支給する補償法が成立しました。
 同法の前文には、「国会及び政府は、その悲惨な事実を悔悟と反省の念を込めて深刻に受け止め、深くおわびするとともに、ハンセン病の患者家族等に対するいわれのない偏見と差別を国民と共に根絶する決意を新たにする」と明記されています。
 補償金は、元患者の親子や配偶者らに180万円、きょうだいらに130万円。厚生労働省は、同法施行の11月22日から補償金の請求申請を受け付けています。
 

【弱い感染力】ハンセン病は、〟〝らい菌〟による感染力の弱い感染症です。らい菌は1873(明治6)年に、ノルウェーの医師ハンセンによって発見されました。かつて「らい病」と呼ばれたこの病気の今日の名称は「ハンセン病」です。
 1947年から特効薬「プロミン」による治療がはじまり、現在では保険適用疾病となり、大学病院や一般医療機関の皮膚科で治療されています。日本の新規患者発生は毎年数名にとどまっています。
【強制隔離】かつて、ハンセン病患者を絶対隔離・終生隔離・断種堕胎を強制する国の政策は、文明国としての国辱論や神国思想の民族浄化論と一体でおこなわれました。
 愛知は「全国有数の癩(らい)県」(県衛生部資料)として、県の警察部と衛生部が一体となって、患者を療養所に強制収容する「無癩県運動」を推進しました。
 主な収容先は、岡山県の長島愛生園、東京都の多磨全生園、静岡県の駿河療養所でした。
 1958年、東京で開催された第7回国際らい会議は強制的な人権侵害の隔離政策の全面的破棄を勧奨しました。しかし、日本の隔離政策は1996年の「らい予防法」廃止まで続きました。
【違憲判決】1998年7月、ハンセン病療養所の入所者が「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」を起こします。2001年5月11日、熊本地裁は違憲判決を下し、国家賠償を命じました。
 この違憲訴訟を全国の療養所を訪問して激励したのが日本共産党の瀬古由起子衆院議員(当時)です。愛知県議会では、同党県議団が県に謝罪と入所者の社会復帰への援助、偏見・差別の根絶を求めました。
 愛知県知事は「人権の尊重を基本として、ハンセン病に対する差別や偏見の解消と福祉の増進に努める」とのメッセージを発表しました。
【県民が支援】愛知県民レベルでも元患者や家族と連帯する取り組みがおこなわれています。
 愛知民報社協賛の市民シンポジウム、物故した元患者の追悼集会、ハンセン病隔離政策に反対したあま市出身小笠原登医師の顕彰行事などです。
 愛知県発行の冊子『ハンセン病の記録』には、愛知県出身のハンセン病回復者や家族の体験証言が集録されています。(元愛知県議・林信敏)

元患者の党員は立ち上がった

元日本共産党衆議院議員 瀬古由起子

 11月15日、ハンセン病家族補償法が成立しました。元患者さんたちが起こした「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」の判決(2001年5月11日)に続く今度の家族裁判の勝訴、補償法成立は私の胸に迫るものがあります。
 愛知県出身のハンセン病元患者が地元で著書の「出版記念会」をやろうとしたら地元に住んでいる家族から「私を殺してから」と言われました。療養所に強制隔離されるとき家を消毒で真っ白にされ、一家離散、退学、離婚など地域から放り出されてしまった家族をどうして咎めることができるでしょうか。
 家族補償法の成立は偏見差別をなくす大きな一歩ではありますが、さらに社会全体から偏見と差別の思想をなくすのはこれからのたたかいにかかっています。
 元患者や家族の歴史的なたたかいに勝利した原動力は何か。療養所内の元患者や弁護団、さらに支援してきた共産党員や「しんぶん赤旗」読者と言っても過言ではありません。
 療養所には日本共産党の支部がありました。長島愛生園の党支部の機関紙『らしんばん』は、支部長だった森田竹次さんが手足がマヒしている中でも口にペンをくわえて発行し療養所の仲間を励ましました。多くの入所者党員が療養所の中で不自由な体で「赤旗」を配っています。
 共産党国会議員団が全国の療養所を訪問した際に「たたかう力に」との呼び掛けに応えて入党した方は30人を超えます。原告団長の故・谺雄二さんは「党こそ自分のふるさと」と立ち上がったのでした。

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